火曜
一
店に入ったとき、女はもうカウンターにいて、ママに髪の話をしていた。今日切ったのだという。襟足を短くしたのに、会社で誰にも何も言われなかった。文句を言っている声ではなかった。ただ、話は何度もそこへ戻った。
私が座るとすぐに、女はこちらを向いた。
「短くなったの、わかる?」
切る前を知らないので、わからなかった。そう言うと、女は声を出して笑った。
「そうだよね。知らない人に聞いちゃった」
女は椅子を回して、私に背中を向けた。襟足はバリカンで首の付け根まで刈ってあって、刈った線のすぐ下の皮膚だけ、白かった。女はそのまま十秒くらい動かなかった。
「会社に九時間いて、誰も」
ママが、土曜はどうだったの、と聞いた。
「行ったよ。四対四。一時間で帰ってきた」
「つまんなかった?」
「ううん。気になる人が三人いて、それで帰ってきた」
ママが氷を割った。
「聞かれてもないのに元カノの話を三回した人と、注文を全部仕切ってたのに手が震えてた人。あと一人は女の子で、自分のこと聞かれるたびに隣の子の話にすり替えてた。そういうの見ちゃうと、前の恋愛どんなだったんだろうとか、何隠してんだろうとか、三回目に会ったら何言い出すんだろうとか、考えちゃうの。八人中三人は多いよ」
「気になったのに、帰ったんですか」
女がこちらを向いた。
「気になったから帰ったの」
「六ヶ月付き合ってる人がいるの。うまくいってる。ほんとに普通に、ちゃんと。半年たつと、周りも自分も、この先どうすんの、って空気になるじゃん。彼が何か言ってきたわけでもないし、私が何か欲しいわけでもないんだけど」
「彼、合コンのこと知ってんの?」
ママが氷を割る手を止めずに聞いた。
「言ってない」
ママは何も言わなかった。女は梅酒を飲んだ。
「好きだよ。彼は、私がよく喋ってよく人を見てるとこが好きなんだって。たぶんこのまま続く。じゃあなんで合コン行くのって言われたら、説明できない。行きたかったから。矛盾してるとは思ってないけど、人には言わない。そういう人、って顔されるから」
「言ってるじゃん」
「ここはいいの」
女は二十九歳で、イベント会社にいて、中野に一人で住んでいた。それは一分で終わった。
女は椅子をこちらへ回した。
「あなたは? なんで火曜に一人でここで飲んでんの」
「火曜は、ここに来ることにしています」
答えになっていなかった。
「私が話してるあいだに三回グラス持ち上げて、飲まないで置いたでしょ。見てたのは私の口じゃなくて首のほう。あと椅子、一回も動かしてない」
女は梅酒を飲んだ。
「好きな人、いるの?」
「人を見るのは、好きです」
女はしばらく待って、それ以上は来ないとわかると、手を差し出した。
「手、出して」
私は右手をカウンターに置いた。女は自分の右手の甲を私の手の甲に当てた。一秒か、二秒。
「冷たい。私のほうが熱い。飲んでるからかな」
「いつもこうです」
「いつもって、どのくらい」
「冬は、ずっとです」
「覚えとく」
女は手を戻して、棚のほうを向いた。
二
一時を過ぎて、客は私たちだけになった。女はまた椅子を回して、私に背中を向けた。
「触ってみて。触ったほうがわかる」
私は人差し指と中指を襟足に当てた。刈った毛が指の腹に逆らった。その下の皮膚は熱かった。首の付け根の骨が、指の少し下にあった。
女が梅酒に手を伸ばして、肩が動いた。私は指を離した。女は飲まずに、まだ、と言った。私は指を戻した。
「ママ、見てる?」
「見てるよ」
「何が見える?」
「男の人の手が、女の人の首にのってるね」
ママはグラスを拭きながら言った。女は、うん、と言った。
女は背中を向けたまま話した。顔が見えないぶん、声がまっすぐ来た。
「今日、会議が三つあって、三つとも同じ人の隣だったの。その人、手がいいの。手だけ。ペン持つときに、ここの骨が動く。見てると、こっちの手が勝手にぎゅってなるの。机の下で」
女は右手を上げて、親指の付け根の骨を左手の指で触った。
「会議の人は、髪のこと、言いましたか」
「言ってない。三回も隣にいたのにね」
「人のこと、知りたくなるの。手がいつも何度くらいか、汗の匂いが夜と朝で変わるか、朝いちばんの声、寝るときどっちの腕が下か、話し終わったあとに顔がどうなるか。彼のことは知ってる。寝るときは左腕が下で、私の髪を一本ずつ指で分けて、自分が寝ちゃうまでやめない。知ったから飽きるとかじゃなくて、知ってることをもう一回確かめるのも好き。でも知らない人のことは知らないでしょ。知らないものが目の前にあると、知りたくなる。それだけなんだけど」
女は少し黙った。
「あなたも人を見てるならわかるでしょ。この人とだったらどうなるんだろう、って考えるの。それがなんでそんなにいけないのか」
私は答えなかった。女も待っていなかった。
女は椅子を半分だけ戻して、顔だけこちらへ向けた。
「それ、何飲んでるの」
「焼酎です」
「飲むとこ見たい。今度は私の番」
私は焼酎を飲んだ。見られながら飲むのは、飲むのと違う動作だった。喉が、いつもより大きく動いた。
「喉、動くね。ちょうだい」
女は私のグラスを取った。私の口がついていたところを指で探して、そこに口をつけて、飲んだ。私は見ていた。女はグラスを置いてから言った。
「見られて飲むのって、こんな感じなんだ。好きかも。知らなかった」
刈った線の下が、赤くなっていた。ママは見ていた。
女はまた背中を向けた。
「手、貸して」
女は私の右手を取って、自分の襟足に当てた。私の手は、もう冷たくなかった。それから女は私の手を、首の横へ動かした。顎の下だった。指の腹に、脈があった。
「ここ。わかる?」
「わかります」
女はそのままで、棚を見ていた。ママはグラスを拭いていた。手は止まっていなかった。
女が首に私の手を当てたまま言った。
「付き合ってた人の、何を見てたの」
「寝る前に、髪を結ぶところです」
「見てたんだ」
女はしばらく黙った。
「私の、何が知りたい」
「朝いちばんの声です」
「どんな声だと思う?」
女は私の手をカウンターに戻した。
三時半に、ママは水を出す。毎晩そうしている。二人の前に水が置かれた。
「水飲みな、二人とも。そんだけ喋ったら喉渇くでしょ」
女は水を飲んだ。隣の店のシャッターが下りる音がした。
「ママ、今何時?」
ママが時計を見て、三時四十分、と言った。
「始発は?」
「四時半過ぎ」
ママは看板の電気を消しに出た。
扉が閉まると、女は椅子を回して、私を見た。
「触らないでね」
「触りません」
女はそのまま、ママが戻ってくるまで私を見ていた。私も見ていた。ママは何も言わずに布を畳みはじめた。
三
扉の磨りガラスが、黒から灰色になりはじめた。店内の明かりは、一つだけになっていた。私たちは並んで、窓のある壁を見ていた。
女が話しはじめた。私に向けてでも、ママに向けてでもなかった。声は低いままで、言葉だけが変わった。
「私があの人を好きになったことに、私の意志は関与していない。顔と、声と、沈黙の長さと。それだけで決まっていた。自然がそのように仕組んだのなら、自然が私に与えたのは、あの人を愛する能力ではなく、人を愛する能力である。能力は対象を選ばない。同じ目、同じ皮膚、同じ速度で、ほかの人の前でも作動する。作動してしまう。私がほかの人に惹かれるとき、そこで働いているのは、あの人を好きになったときと寸分違わぬものだ。それを裏切りと名づけるのは、私ではなく、語彙のほうである。
ほかの人に惹かれるたび、私は自分のなかに、まだ知らなかった私を見つける。この人の前ではこの顔になるのか、この速さで喋るのか、この話題で黙るのか。あの人の前では決して出てこない私が、ほかの人の前では出てくる。出てこない私を、いないものとして生きることはできる。大半の人がそうして暮らしている。けれど、私を前へ押しているもの、好奇心と、人の奥を知りたがる性分と、まだ見ていないものへ向かう足と、その全部が、あの人が私を好きになった理由の一部でもあるはずなのだ。少なくとも、そう願っている。その部分を殺して従順になった私は、もはやあの人が選んだ私ではない。
二つの生を一つに融かすことはできない。どれほど長く並んで眠っても、私はあの人の内側に入れず、あの人も私の内側には入れない。人は一人ずつであり、終わりまで一人ずつである。結婚も、誓いも、二人を一つにする装置ではなく、一人ずつであることを互いに見ないで済ませる装置だと、私は思っている。悪いとは言わない。見ないで済ませなければ、人は共に暮らせないのかもしれない。ただ、その装置にどこまで従うかは、私が決めてよいはずだ。
嫉妬について。あの人がほかの誰かを好きになったら、私はどうか。無論、厭だ。身体が先に厭がるだろう。だが、その厭はどこから来るのか。あの人がほかの人を好きになることは、あの人が私を好きでなくなることを含意しない。感情はそのような排他の論理では動かない。一人を愛したからといってもう一人への情が消えはしないことを、私は自分の身体で知っている。ならば、あの人が誰を好きになろうと、私はあの人の気持ちを失わないはずだ。
それでも厭なのは、あの人もまたこの社会の住人だからだ。あの人は約束を守る人で、約束は一人を選べと命じる。あの人がほかの人を好きになれば選択を迫られ、選択すれば、私は置いていかれる。私が失うのはあの人の情ではなく、私との約束のほうであり、私が厭なのは、その失われ方なのだ。
とすれば、私の嫉妬は自然のものではないのかもしれない。社会が約束を作り、約束が選択を強い、選択が喪失を生み、喪失の予感が嫉妬を生む。どこにも自然はいない。あるいは、全部が自然なのかもしれない。見分けがつかない。見分けのつかないものに、私は現に止められている。
止められていることと、従いたいこととは別だ。好きな人を失わないために、ほかの人に惹かれる自分を殺すか。惹かれる自分でいるために、好きな人を失うか。どちらも選びたくない。どちらを選んでも半分が死ぬ。この二択の外に、まだ誰も私に見せてくれていない形があるのかどうか、私は知らない。知らないまま、探している」
女は水を飲み干した。ママは畳んだ布をカウンターの下に置いて、しばらく女を見ていた。
「寂しい話だね」
「そう?」
女は梅酒のグラスを引き寄せて、底に残っていたのを飲んだ。
「寂しくはないよ。わかんないだけ」
灰色が白くなった。ママが扉を開けると、路地の冷たい空気が入ってきた。始発まで、二十分あった。
女はコートを着て、襟を立てると襟足が隠れた。少しして、襟を下ろした。また火曜に来る、とママに言った。それから私に、おやすみ、と言った。朝だった。声はかすれていた。路地で、女は左へ、私は右へ歩いた。
それからも火曜には、あの店に行っている。女は来る週と来ない週があった。六ヶ月の人とどうなったのかは、聞かなかった。女も言わなかった。来るときは、仕事の話をして、週末に会った人の話をして、誰かの髪とか、誰かの手とか、そういう話をして、始発で帰った。髪は伸びて、肩についた。一度、襟足に触った。指に逆らうものはなかった。女が梅酒に手を伸ばして、肩が動いた。私は指を離した。