志望書には何が期待されているのだろうか。求められているのは、自分の生においてどれほど心理的洞察に近づいているか、ということなのだろうか。この志望書を書きながら私を混乱させているのは、被分析者としてなのか分析家としてなのか、どちらの位置からこのほとんど自己紹介のような文章を書くことが期待されているのか、私について「もっと語る」べきなのか、それとも自分の生により理論的かつ分析的な仕方で接近すべきなのか、ということだ。以下の文章は後者、すなわち分析家の位置から書かれている。というのも、そのほうが、心理的洞察への近さと、この文章の可能性をよりよく示せると考えるからだ。
前学期の終わりから、私は毎週パトリス教授に会っていた。私の関心は主として哲学にあるので、会話のなかで彼は哲学について、より正確には、人が哲学を学ぶひとつの共通の動機について、こう述べた。哲学とはつまるところ、自らの苦しみに意味を与えようとする試みなのだ、と。この言葉は私にとって衝撃だった。私の解釈では、この言葉が含意しているのは、真理と哲学を断念することだ。哲学の普遍性と真理性は、たんなる防衛機制へと貶められてしまう。しかし、苦しみは人によってその形も量も異なり、そのことは、真理や超越論的価値なるものが、自ら想定しているような普遍的な力を決してもたないことを示している。原初的なトラウマゆえに、自らの生を哲学によって正当化する必要をもたない人びと、〈法〉によって同じ程度には規制されていない人びとが、つねに存在するのではないか。『自我とエス』でフロイトが超自我について言うのも、これではないだろうか。最も倫理的にふるまう者こそ、最も多く罰せられるのだと。人びとが言い争うとき、なぜ他人は何が「正しい」のかを理解しないのだろうと訝しく思うことがあるが、それは単に、彼らにはその必要がないからかもしれない。
しかし、なぜそれがこれほど恐ろしかったのだろうか。哲学が他人にとって何を意味しようと脇に置き、ただ自分で、自分のために「真理」を追い求めることで、なぜ私は満足できないのだろうか。なぜ真理というもの、真理の研究である哲学というものの定義には、普遍性が帰せられているのだろうか。1 結局のところ、哲学は何のために〈他者〉を必要とするのか。ここから、もうひとつ別の解釈が導かれる。哲学の背後に隠れているのは、生をあるがままに受け入れることのできなさなのではないか。そして哲学の達成とは、その苦痛に満ちた生命力そのものとしての生から退却し、生の「特殊」から「普遍」へと身を引き、深い敗北を勝利として包み直すこと、しかも偽の勝利として、なのではないか。
禁じる神、ほかの理解を偽として退ける真理、そして子どもが母の全面的な注意を獲得しようとする試みを妨げ、去勢を導入するエディプス構造における父の名(フランス語では「父の否」と同音でもある)は、同じものの別名ではないだろうか。それらは、人びとが奉仕し、犠牲を捧げる絶対的な否定性である。まるで子どもが父を満足させようとするかのように。私たちは〈他者〉に承認されることを必要としている。自らに課した去勢は善いものであり、それで十分なのだと、そう告げてもらうために。フロイトは、子どもの「教育」を性的快楽の喪失として理解している。食べることや排泄することの欲求に対する直接的な満足は差し止められ、あるいは罰せられ、自体愛的な行動(親指しゃぶりや性器に触れること)はしだいに抑止されていく。子どもは、自らの快楽を、親の愛と承認と引き換えに手放す。だからこそ、哲学にはつねに〈他者〉が前提されているのだ。すなわち、私たちの犠牲を欲し、そののちにその報酬を与えてくれる〈他者〉が。
だが、私たちは彼(神、父、あるいは〈他者〉)にうまく仕えることなどできるのだろうか。私たちの犠牲は、ほんとうに〈他者〉が望んでいるものなのか、それとも、報われるために私たちが〈他者〉の欲望として空想しているものなのか。「哲学とは、自らの苦しみに意味を与えようとする試みである。」普遍的真理の背後には、つねにひとつの主観的な立場がある。人びとが空想するような調和や健全な全体性に、私たちはけっして到達できない。哲学とは、到達しえない満足を追い求める長い迂回なのである。したがって私の考えでは、哲学を学ぶという実践は(そしてそこからひとつのアイデンティティを得ることもまた)、フロイトが死の欲動について仮定したことと密接に結びついている。すなわち、トラウマを反復することで外傷的出来事の有害な帰結を事後的に取り消そうとしつつ、満足できないというそのこと自体から満足を得るような欲動と。
生には意味がない。真の昇華は、私の現在の理解では、生のその否定性と全面的に同一化するところにある。生それ自体が不均衡で、不完全で、外傷的なのだ。そして私たちは、どのような仕方であれ生を正当化しようとする必要を手放さねばならない。それは、子どもが自らの父となるとき、私たちが神になるときのようなものだ。私はまだ、この昇華がどのように作動するのかを語るための語彙を十分にはもっていない。だが私の見るところ、精神分析のうちにこそ、この変容への鍵がある。
標準的な医学モデルによれば、精神病理とは、損傷した発達によって生み出された正常な精神機能からの逸脱である。フロイトは、『日常生活の精神病理学』という彼の著作の題名が示す通り、正常性と病理とのあいだに連続性を措定することによって、このモデルと決定的に断絶した。精神疾患において働いているのと同じメカニズムは、日常の生における言い損ない、錯誤行為、そして機知(彼の冗談についての著作)にも現れている。さらに大胆にも、フロイトは、文明のもっとも高次の達成と、さまざまな病理的現象との親和性を指摘した。すなわち、宗教は強迫神経症者の強迫儀礼と、哲学理論はパラノイア的体系と、芸術は幼児的な性的空想と、それぞれ響き合っている。アルトゥール・ショーペンハウアーがかつて、いかにもベケット的な仕方で、歩行を「絶えず中断された転倒」と定義したように、精神分析は私たちに、正気とは狂気の対極ではなく、多かれ少なかれうまく調整された狂気なのだと考えるよう促す。
絶えず破綻を恐れながら生きている精神病者に、医師が「心配するな、その破綻はすでに起きている。君はすでに狂っている」と安心させるような場面を想像してみてほしい。私たちはすでに死んでいる/去勢されている。生の理由や正当化を、もう探してはならない……
Footnotes
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ここで私が指しているのは、哲学の狭い定義である。哲学に別れを告げるどころか、この文章は、私にとって本来の哲学への道を開いた。病理的なものを空にすることで。 ↩︎