Cへの手紙
出走と自己叙述をめぐる探求。
Cさんへ
Qからあなたのことを聞いて、私のほうから勝手に、あなたに何か書きたいと言い出した。似たような経験をしたあなたのことを知って、どこかで相互理解にたどり着きたかったのかもしれない。あるいは、かつての自分に言いたかったことを、いま言葉にしたかっただけなのかもしれない。いずれにせよ、ここに書くのは、私のささやかな経験にすぎない。
「この手紙のはじめに、どうしても強調しておかなければならない。あなたが探している答えを、私は持っていない。あなたがいま歩いている道を、私は歩いたことがない。そこには岩がある、流砂がある、気をつけて、と告げられるだけの経験も能力も、私にはない。問いの答えは、さらに多くの問いを引き出すだけかもしれない。いわゆる人生とは、たぶんそういうものだ。」
私には、かつて気性の荒かった父がいる(今はずいぶんよくなったけれど)。私の子ども時代は、泣いて過ぎていった。幼い私は、ときには何か間違ったことをしたのかもしれない。けれど、親から説明されたことはなかったから、自分が何を間違えたのかは分からなかった。あるいは、ただ親の機嫌が悪かっただけのこともあった。物心がついたころから、私はよく殴られていた。
最初のころ、私は「私は悪くない」と言い張っていた。やがて、「私が悪かった」と認めれば殴られる回数が減るのだと分かった。だから殴られそうになるたび、すぐに「私が悪かった」と言うようになった。けれど今度は、「何が悪かったのか」と問われる。答えられない。そしてまた殴られる。要するに、私の子ども時代は、毎日のように殴られ、夜になると布団にもぐり込み、泣きながら眠りに落ちる、その繰り返しだった。言葉にすると刺々しく見える。けれど今の私は、このことをもうずいぶん平静に語ることができる。
年齢を重ねるにつれて、子どものころのように頻繁に殴られることはなくなった。けれど、自分の思考が育っていくにつれ、親とのあいだにはまた別の、激しい衝突の時期が訪れた。幸運だったのは、中学時代の最初の恋愛が、私にとって大きな転機になったことだ。その最初の恋愛から、私は本来なら家庭から受け取るはずだった「支え」を得た。この経験は、その後もずっと私を支える力であり続けた。
私にとって最後の大きな衝突は、高校一年のときだった。あのころ私は、勉強することの意味、学校に通うことの意味、自分は人生に何を望んでいるのか、幸福感はどこから来るのか、そうしたことを考え始めていた。その思考の延長で、高校一年の後半には、高校の勉強そのものを拒むようになった。当時はたくさん本を読み、たくさん日記を書いた。けれど親は、子どもが独立して考える力を持ち始めたからといって、喜んでくれたりはしない。ただ「正常な軌道」から外れたというだけで、そこへ無理やり引き戻そうとする。世界観が少しずつ形を取り始める高校時代、「原家族は私に何をもたらしたのか」という問いは、ますます切実なものになっていった。
では、原家族は私に何をもたらしたのか。ひどい記憶。思考と個人としての成長への束縛。親密な関係のなかに現れる、厄介な回避型/アンビヴァレント型の愛着傾向。高校のころから少しずつ進んでいった個体化の過程のなかで、家族から持ち込まれた桎梏を見分け、それを取り除くことが、私にとって最優先の課題になった。Qから、あなたの家庭があなたの思考にまで強く介入し、押しつけてきたことを聞いた。家庭から離れ、独立した一人の人間になることは、私たちのどちらにとっても、どうしても通らなければならないことなのだと思う。
反抗と出走について言えば、私たちは怒りを抱えながら、自分の主体性を探しにいく。私は怒りを拒まない。むしろ、私たちは怒って当然だと思っている。怒りは、原家族という牢獄を打ち砕く力になりうる。いずれにせよ、原家族はいまなお、それぞれのアイデンティティの一部を形づくっている。アイデンティティを手放すのは難しい。だからこそ、私たちには怒りが必要なのだ。怒りは「生々しく、ざらついている」。
けれど他方で、自分が縛られていると感じたなら、私たちは冷静に自分を解剖し、読み、書かなければならない。出走は反逆だけで終わってはならない。 ときに、頭に血の上った怒りは、「私は誰なのか」という問いに答えられないことから来ているのかもしれない。あるいは、もう一度飲み込まれてしまうのではないかという恐怖が、絶えず脅威として働いているのかもしれない。結局のところ、家族に支配されずにいたいのなら、私たちは自分が家族とは異なる存在であることを確かめなければならない。怒りや、「衆人皆酔いて我ひとり醒める」といった自己陶酔も、その不安に答えることはできない。
『Fight Club』のあの一節を、私はずっととても好きだった。
“Self-improvement is masturbation. And self-destruction…” (「自己啓発なんてオナニーだ。そして自己破壊は……」)
いまの状況が思いどおりではないことは分かっている。変わるべきだということも分かっている。けれど変わり始める前に、まず自分たちが向かおうとしている方向が、本当に自分の望む方向なのかを確かめなければならない。見えない家族の足枷をつけたままなら、自己改善は、見えない敵と戦うドン・キホーテのようなものだ。結局は、自分を慰める行為にすぎない。
私たちがまずしなければならないのは、その足枷を見つけ、それを壊すことだ。つまり、「生の物語を、後設的かつ立体的に捉え返すこと」だ。経験し、それから省みること。 たくさんの経験のなかで、本当の自分と、無理やり押し込まれた他者の物語とを見分けていくこと。あなたの家庭があなたにもたらしたものを、あなたが嫌悪している部分まで含めて、すべて見つめること。
家庭は、『Fight Club』に出てくる、手の甲に苛性ソーダで焼きついたあの傷痕のようなものかもしれない。私たちは一生それを抱えて生きていく。けれど、それを正面から見据えたあとには、もうそれほど恐ろしくはない。家庭が内的対象なのだとすれば、豊かな経験は、私たちに揺るぎない自己定義を与えてくれる。経験のなかで出会う他者たちは総合され、新しい内的対象となる。これは、自分で自分に、人生を変える力を与えていく過程だ。目の前にあるものを自分は変えられるのだと、はっきり知ることができたとき、家庭環境のなかで感じていた苛立ちも、きっといくらか薄れていく。
この過程は孤独なものになるだろう。「あなたは私の愛を、私が愛するようには愛せない。私はあなたの憎しみを、あなたが憎むようには憎めない。あなたは、私であるとはどういうことかを、永遠に完全には知りえない。そして私も、あなたであるとはどういうことかを、完全には知りえない。」
人は、自分で自分を救うしかない。自我の補完も、最後には自分にしかできない。けれど同時に、孤独であることと、誰かと共に在ることは矛盾しない。すべての意識がひとつに溶け合ってしまった LCL の海(『EVA』)には、「他者」と共に在ることはできない。互いに完全には通じ合えないこの現実のなかでこそ、私たちは共に在ることができる。「夢は現実の続き。」 あなたのそばにいる人たちを頼って。その人たちは、あなたの新しい家族だ。
それから、いまどんな迷いのなかにあったとしても、「未来はもっとよくなる」という信念だけは持ち続けていてほしい。「出口がまだ見つからないように見えるあなたの文章のなかに、あなたはすでに、ひとりの人間としての全体性を支えるいくつかの核となる力⸺主体的な意志、誠実な内省、そして批判的な反省⸺を示している。」
生きて。これから時間が流れ、あなた自身が成長していくなかで、問題は少しずつほどけていくはずだ。いまこの瞬間に、無理に解決しようとしなくていい。そうした問題には、唯一の正解も、最適解もないのだから。
「人生のこととなれば、誰だって素人だ。誰にとっても初参加なのだから、人生に熟練者なんていない。」
All the best,
Alex