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性と大義

生物学的本質としての性に回帰することも、文化的構築へと完全に還元することも、性をめぐる行き詰まりは解けない。信仰、大義、トラウマ、そしてマスター・シニフィアンを手掛かりに、性的差異がいかにして内容に先立つ純粋な差異として現れるのかを考える。

ボーヴォワールの有名な一節「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」以来、セックス・ジェンダーの二分法はあらゆるジェンダー研究の基礎になった。セックスは生物学によって固定され、ジェンダーは歴史的かつ社会的に変動すると考えられてきた(ただし以下では「ジェンダー」ではなく、慣習的な語である「セックス」を使うことを許してほしい)性的差異など存在せず、したがって社会的差異はすべて家父長制的抑圧の産物であり、取り除かれるべきだと考える立場もあれば、決定論に陥らない非家父長制的な女性の本質を理論化しようとするフェミニストたちもいる。

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル : フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity) では、性的アイデンティティの理解にまとわりつくあらゆるドグマが揺さぶられる。だが、そこでバトラーが誘発しているのは、セックスに対する懐疑主義というより、むしろ自信に満ちたヴォランタリズムのように見える。セックスは「パフォーマティヴに演じられた意味作用」と定義され、そこから「ジェンダー化された意味のパロディ的増殖と転覆的な戯れ」が可能になる。言い換えれば、性的差異には不変で恒常的なものなどなく、ディスコースは歴史的に構築されたものだから、我々はそこへ介入し、性的アイデンティティの転覆を作り出すべきだ、ということになる。しかしここで手つかずのまま残るのは、もしセックスが作られたものなら、それはまた解体されるべきだという含意である。ここで問題にしたいのは、性の本質をめぐるこの往復運動を生み出す原因である。性を文化的構成物として理解しているにもかかわらず、なぜ我々は性そのものという観念を完全には捨て去れないのだろうか。

マスター・シニフィアン

逆説はこうだ。一方で、人々が性を実在するものとして扱い続けるかぎり、性は客観的なものに見える。他方で、性は文化的に構築されたものであり、したがって完全に主観的だとも考えられている。この逆説をよりよく捉えるために、少し話題を変えたい「私は……を信じている(自由、フェミニズムなど)」と言うとき、そこに現れているのは主体と大義(Cause)との関係である。ここでいう Cause は、主体を駆り立てる大義であると同時に、主体を成立させる原因でもある(たとえば「私は自由のために行動する」。)このメッセージの背後にあるのは、私が一人ではないということ、同じ大義を信じる他者たちが存在するということだ。つまり、私が信じているものとは、私の外部にある何か客観的な実体、すなわち他者たちが抱く信念そのものなのである。この点をもう少し掘り下げるために、ヘーゲルの『精神現象学』(1977, p.391) から一節を引こう。

……信仰の絶対的存在は、本質的に抽象的存在、すなわち信ずる意識にとっての彼岸ではない。むしろそれは共同体の精神であり、抽象的存在と自己意識との統一である。この精神が共同体の精神であることは、本質的に共同体の行為に依存している。……同時に、その存在〔信仰の存在〕は、それ自体として、かつそれ自身のために存在する。

ここでの逆説は、一方では信仰の存在全体が、集合的価値の体現として主体たちによって措定されていること、他方では信仰の存在が、主体たちにかかわりなく存続する、それ自体かつそれ自身のために存在する客体として全面的に措定されていることにある。しかし重要なのは、この大義(Cause)を我々の主観的な措定へと乱暴に還元することはできないという点だ。たとえば神は、人間の価値(愛、親切、誠実など)の体現として理解できる。だが、それが機能するためには、神をヒューマニズム的価値へと置き換えることはできない。言い換えれば、神は超越的な彼岸、究極的には人間ならざるものとして存在しなければならない。

精神分析におけるトラウマ理解を思い出せば十分だろう。フロイトの最も有名な患者であるウルフマンの場合、原因(Cause)となったのは両親の性交場面というトラウマ的光景だった。しかしこの原因が効力を発揮したのは、時間的遅延ののちである。ウルフマンが二歳のときにその性交を目撃した際、その場面にはまだ何のトラウマ的刻印もなかった。その光景がトラウマ的特徴を獲得したのは、子どもの幼児的性理論が後に発達してから、すなわち文化と言語の同化、象徴化が進んでからにすぎない。したがって、トラウマとは両親の性交という意味のない剥き出しの事実(factum brutum)ではなく、主体的な象徴化の発展を通じてのみ、その事実が事後的に原因となるのである。ここにトラウマの遡及的循環がある。トラウマとは、象徴化の滑らかな機構を攪乱し、それを均衡から投げ出す原因である。トラウマは象徴場に消去しがたい不整合を生じさせる。しかし、それは象徴化以前にそれ自身の存在を持ってはいない。言い換えれば、トラウマを生み出すのは、象徴場における不整合の構造的必然性なのである。

したがって、性に何らかの実体的本質を割り当てること(純粋に客観的に捉えること)も、それを文化的構成へと還元すること(純粋に主観的に捉えること)も、性をめぐる難問を解決しない。前者に対しては、フロイトがすでに、自我、すなわち我々が「真の自己」と呼ぶものは、たんなる作り物、想像的自己にすぎないことを示している。そもそも家父長制文化によって抑圧される以前に、女性の真の自己(ついでに言えば男性の真の自己も)など存在しないのだ(もちろん、これは抑圧が存在しないことを意味しない)後者について無視できないのは、トラウマという原因(Cause)、すなわちフロイト的無意識が、主体がそこから出現してくる効果を指し示していることである。ただしここで避けなければならないのは、無意識が我々を決定する何かだ、という理解だ。この二つはどのように違うのだろうか。

象徴化の外部にありながら、それに依存しているこのトラウマとは何なのか。トラウマとは象徴化に抵抗する核であり、したがって象徴化の失敗としてしか自らを示さない。フロイト派精神分析において、トラウマには、象徴秩序の攪乱という形をとってしか接近できない。たとえば、あるトラウマ的記憶の介入によって文、すなわちシニフィアンの連鎖が中断される失言を思い出せばよい。原因としてのトラウマは、象徴構造の機能不全を通じて間接的に自らを明らかにする。その本質的な接近不可能性ゆえに、この原因が我々を決定する何かだとは言えない。無意識が無意識のまま、すなわち象徴化されないままであるのと同じように、原因もまた分節化されないまま残る。

信仰の存在に戻ろう。それは、無を指し示すシニフィアン、いわばプレースホルダーとして機能しているのではないか。神が価値の体現だと言うより、神は純粋な名として機能している。たとえばあるナショナリストが「今すぐ行動しなければならない。国家が危機に瀕している」と言うとき、その「国家」とは、その後に続くあらゆる行為に正当化の根拠を与える空虚な言葉。あるいは、反社会主義的な皮肉のほうがこの点をよりよく示しているだろう「たしかに食糧も、電気も、住宅も、本も、自由も足りない。だが結局のところ、それが何だというのか。われわれには社会主義があるではないか」ここで分かるのは、社会主義が空虚なシニフィアンになるということだ。もはやそれは、食糧、電気、住宅など一連の記号の単なる略称ではなく、人々の政治的アイデンティティと行為を支える大義なのである。この空虚なシニフィアンこそ、ラカン派精神分析でいう「マスター・シニフィアン」であり、それは〈他者〉の整合性を保証する(かなり単純化して言えば、〈他者〉とは、あなたが自らの主体性を確証することになる領域であり、その場は神や国家などを信じることによって開かれる

性的差異

性的差異は、対立的で、対称的で、相補的な関係として考えられがちだ。プラトンの『饗宴』では、人間は二つに切り分けられ、一方は女の部分、もう一方は男の部分となり、両性は再びひとつの全体へと結び合わされることを欲望するとされる。これに対してラカンの「性的関係なるものはない」という命題は何を意味しているのか。この点では、クロード・レヴィ=ストロースが『構造人類学』で提示した「ゼロ制度(zero-institution)」という概念が助けになるかもしれない。彼は同じ部族の二つの下位集団に村の平面図を描かせたところ、まったく異なる認識が現れた。ストロースの理解は、観察者によって認識が異なるという文化相対主義ではない。むしろ、二つの認識への分裂そのものが隠れた不変項なのである。この不変項こそ、村の住民たちが象徴化し、内面化することのできなかったトラウマ的核、すなわち根本的対立である。

左右の分裂を思い出せば十分だろう。左派と右派は政治空間の中で異なる位置を占めるだけではない。彼らは政治空間の布置それ自体を異なって知覚している。左派はそれを根本的対立によって分割された場として捉え、右派は外部からの侵入者によって攪乱された共同体の統一として捉える。ストロースの論点は、にもかかわらず二つの下位集団が同じ一つの部族を構成している以上、この対立による分裂もまた象徴的に記入されなければならないということだ。ここでマスター・シニフィアンが登場する。それは、その共有された存在によって社会制度の現前を印づけるシニフィアンでありながら、その対立的性質ゆえに、いかなる実質的で確定的な意味内容も与えられない。

ここで私が提示したい議論は、性がそうしたマスター・シニフィアンの一つだということである。ラカンは『エクリ』所収の「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」のなかで、上にそれぞれ「婦人用」「紳士用」と書かれた、二つの同一の扉の図を示している。想像的指示対象の水準では、そこに違いはない。しかし二つの扉は、象徴的な帰属によって異なるものとして知覚されなければならない。ここでの性的差異とは、いかなる内容やアイデンティティにも先立つ純粋な差異である。扉が同一であるかどうかにかかわらず、まず先にその分裂が存在していなければならない。性がけっして調和として考えられないのは、この意味においてである。相補的関係を打ち立てようとするいかなる試みも、失敗する運命にある。